言い伝えを信じるようになったこと
私は決して信心深い方ではない。
なんなら、なるべく神仏に頼らないようにしている。
私の軟弱な性格では、なにからなにまで神仏のせいにしてしまいそうだからである。
それなので、神社に行って神様に拝謁するのも元日だけにしている。
ちなみにおみくじを引いて一年を占うのを忘れないのはさておき。
けれども、どうやら星回りやら厄年というものは、よくよく人間というものを調べられた結果生まれたものらしい。
年齢による体質、体調の変化。
それらがいわゆる運の良し悪しというものに姿を変えているものだろうと推測している。
だからあながち厄年なんかはあなどれたものではなく、体質が変化するその境の年というものをうまいことついていると思う。
私の今までの星回りや厄年というのは強烈である。
とにかく家にもよくないことがあったし、自分にとっても転機になるような(良くない意味で)年であった。
怪我もした。
だから最近では、昔から言い伝えられていることの根拠を信じるようになった。
よくわからないものでも、何かしらの理由はあるだろう。
三隣亡に引越しはしないし、一粒万倍日も信じるし、仏滅大安だって何かの根拠があるだろう。
そういうことから始まって、家の鬼門とかだって理由があるだろうし、靴を夕方おろしてはいけないのだってきっと納得できるはず。
と、逆に最近ではこころの奥底では信心深くなったかもしれない。
そういえば全くの余談だが、神社でお願い事をするとき自分の住所と名前を告げるといいという説がある。
これに関しては少々懐疑的ながらも、実践していることは言うまでもない。
情報化時代は共有
人が産まれ、生き、ものを考え、死ぬということを何千年も前から繰り返されていることだ。
本当は何千年というスケールではないかもしれないが、とりあえず長い期間ということで、便宜上そうさせてほしい。
そして、少し前まで人生は50年と言われていた。
50年は短く、何かを成すことや考えつくことは難しかっただろうか。
これは、現代で50歳までに成功している人が多いということと同列には語れないと思う。
寿命そのものが50年なのだから、生き方や健康でいられる期間も全く違っただろうし、医療も発達していないということだから、単純に生きることが難しかっただろう。
さらに、情報を伝える手段として、テレビもネットもないとなれば、口で伝えるか、文章で伝えるかになる。
逆にそんな時代だったからこそ、人間や人生、生きること、死ぬことなどについて考えることも多かっただろうし、人生における解のようなものを見つけた人は、必ず何かに遺そうとしたと思う。
そんな積み重ねが人間の歴史を作ってきたことは言うまでもない。
私たちが、現代で格言めいた言葉を思い付いても、きっとそんなものは昔の「偉い人」が言い伝えや書物で既に遺しているだろう。
今はネットの時代だが、最新のキーワードとして「共有」が挙がると思う。
シェアハウスもそうだし、SNSもそうだ。
人生50年の時は、人の一生は短すぎて、また情報を拡散させることが難しくて、自分の考えを人と共有することは難しかった。
今は簡単に自分の思いを拡げることができるし、楽に他人の考えを知ることもできる。
これが良いことなのか悪いことなのか、もう少し時間が経ってみないとわからない。